はなきうスペース

作品感想や舞台探訪、二次創作関連など

『天気の子』を観て読んで感じたこと まとめ

 感想というものは作品に触れたタイミングによって変わるものだと思っている。殊に新海監督作品は年齢や性別、置かれている状況によって感じるものに幅があると思う。数年前と今とでは全く違ってみえることも。『天気の子』はどうだろうか。作品に臨むにあたり、自分が最も気になったのはストーリー展開よりも登場人物の気持ちをどれだけ感じることができるかだった。すなわちそれは共感。この共感の有無によって全く違って見える。

 ここはそこに特化した内容となっており、作品のメッセージやテーマなどはあまり考慮していないこともあらかじめ記しておく。感じることの変遷を記録する場所であり、批評して喜んでるつもりはない

 絶賛以外は目にしたくない人はすみやかに退場願います。反論や苦情も受け付けない。押し付けなしの「自分はこう感じたよ!」等のコメントは歓迎します(ネガティブ感想でもOK)。

 当たり前だけどネタバレあり(新海監督他作品も含む)。

  

 

 

ファーストインプレッション[2019年7月19日 公開初日]

 新海監督最新作『天気の子』を観た。
 今のところ長文感想を書く予定はないけど、なんとなく吐き出しておきたい部分だけ簡単に挙げておく。もろ手を挙げての大絶賛でもプンスカ批判でもない。素直に思ったまま。具体的な内容はないのであしからず。

 第一印象は「普通に面白かった」。あと陽菜かわいい。正義!笑。

 作品というものは制作者の意図はともかく、世に出されてからの評価は受け手それぞれに委ねられるものだし、幅広いとらえ方があって当然。新海監督のファンであってもこれは好きあれはそうでもない、というのは自然なこと。今作も絶賛から批判まで幅広い感想があると思う。

 『天気の子』を新海作品と比べてどうこうというのはあまり意味がないと頭では思っている。ただファンである以上、衝撃だった『君の名は。』や深く沁み続ける『秒速5センチメートル』と比べてしまう感覚はどうしても避けられない。何が変わり、変わらないのか。新たに感じる何かはどんなものがあるのか。過剰な期待は持たないように、それでもやはりわくわくしながら臨んだ。
 結果として、少しばかり危惧していた失望はなかった。面白い作品だった。同時にとてつもない感情に包まれ自失してしまうこともなかった。かといってそういったものが無いことへの不満もない。なんとも不思議な感覚だ。繰り返すが普通に面白かった。
 
 ストーリー展開や結末に納得いかないことはなく、お話は素直に観ることができた。それでも、なんというか……すんなり入ってこなかった部分もあった。それは登場人物の心の動き。
 展開にドキドキしながら画面を追うと同時に、その行動の裏付けとなる感情のようなものに「強さ」をあまり感じることができずに、考え続ける自分もいた。具体的にどこがと言い難いんだけどね……。全体的にスマートに心が動いているような?とでも言おうか。湧き滾るものに押される感、のようなものが最後まで分からなかったというか。自分が鈍くなったのかな?
 パンフレットやインタビューを軽く読む限り、主人公のバックグラウンドは意図的に省いて描いていたとのことだったが、これが引っかかったところかもしれない。
 冒頭で陽菜に重い現実があるのは分かるし、顔中絆創膏だらけで家出した帆高もまあまあハードなことがあったのかと想像できる。そんな二人がしんどく描かれた東京で肩を寄せ合い惹かれ合う的な。そうなんだけど、そうなんだけど……うーん。ぶっちゃけ陽菜かわい過ぎるから好きになる理由なんてそれだけでもいいのだが。
 世界がどうなろうと陽菜さえ戻ればそれでいいというのは少年らしくていいし、発砲厭わないのもアリだとも思う。でも、そうなるに至る心の流れが分からなかった。もっとはっきり言うと「弱い」と感じた。
 恩人に銃口向けるといった狂気じみた行動するまでに強い陽菜への想い。その心に飛躍したのはどこなの?って。それがわからないくて「会いたいんだあっ!」と叫ぶ流れにシンクロできなかった。須賀氏の動機が掴みやすかったのと対照的。それがスタンディングオベーションにならなかった最大の理由。
 自分のとらえ方が弱いだけなのかもしれないけどね!
 もちろんそこは他作品にも見られることで今作だけの特徴ではないのだが、出会いから関係が進むに至る感情の起伏に、重さや強さといったものまで省かれている気がしたり…。自然に脳内補完できるので問題ないのだが、それにしてもライトだな~という印象。さっぱりしてるともいう。それはそれで悪くはないんだけどね。

 あとは『君の名は。』人物を出し過ぎじゃないの~って笑。あそこまでがっつり出されるとは思わなかった。正直言って台詞いっぱい瀧や店員さん三葉まで出てくると、ストーリーそっちのけというか、集中できなかった笑。いや三葉さん素敵で良かったんだけどさあ。でも、ねえ……。『君の名は。』のユキちゃん先生の場合はあくまでユキちゃん先生であってユキノさんというわけでもないしなあ。キャストに「立花瀧」「宮水三葉」「宮水四葉」と確定されるとなあ。いろいろ、なんかなあ……。いや四葉さま可愛いんだけどさあ。
 そこは嬉しさよりも少し「んん?」って。『天気の子』を観ているのに『君の名は。』アフターあれこれの妄想邪念が入り込んで困った。 
 個人的には今作の瀧三はパラレル設定と思うことにした。

 
 繰り返すけど普通に面白かった作品だよ(しつこいね)。今回の感想はあくまで初見の印象。小説を読み、あと一、二回観賞したら変わるかもしれない。スルメのように噛めば噛むほど味が出てくることだってあるし、掌返しで大絶賛なんてことも十分に考えられる。
 その時にまたこの感想を読み返し比べてみたいという気持ちもあって記してみたのさ(という言い訳)。
 というわけでこれを読んで気分悪くする人がいたらごめんなさい、とまでは言わないけど別に不快にさせようと書いたわけではないことはご理解いただきたい。

 新海監督の次回作も楽しみにしている。

 

 

 

感想のやり取りなどから捻り出てきた何か① [2019年7月21日]

 自分の拙い感想のようなものを監修して下さる方達とのやり取りから浮かんできたものをあげてみる。やり取りというが実態は「何が分からないかを探す作業」だった。

『天気の子』の作品テーマや新海監督の意図などは、この時点ではそんなに考慮していない。それはなんとなく掴めているし、どのみち監督自身の口から明確に答えが出ることだから。それよりもまだ帆髙の心の移ろいの核が掴めないでいる。それがどうにも知りたくてうだうだしている時に捻り出てきたものから抽出したものが以下。
 ファーストインプレッション同様、この時点では小説は読み終えていない。

 

帆高について

 ラストの解釈もまだ全然なのだが、今はとにもかくにも帆高はどのように陽菜への想いを強めていったのか、それだけが知りたいという状況で困っている(喜んでる)。
 置かれた状況、貧しさ、不自由さ、閉塞感、理不尽さ、社会(大人)からの敵意、それを打開し共有する若い男女が惹かれ合い結び付くことに理由なんていらない、当然だ。
 そう思ってみても、須賀氏にまでピストル向けるまでの「狂った」状態に陥る流れが映像の流れから感じることができなかった。そこがちょっと腑に落ちなくて。
「こんなの考えるの自分だけかもなー」と思いながらも。
 小説も途中なのだすが、まだ分からない。
 ただ、「狂ってる」がキーの一つではあるのだろうなとは感じている。
 何が狂っているのか。見方が変わればそれは正常。水に沈んだ東京も天気が「狂った」結果であり、人間(陽菜達、あるいは社会の営み)が自然を狂わせたからでもある。同時にその水没した状態が本来であって狂ってなどいない。人間が狂わせたなどおこがましい考え。
 そう思うと帆高の陽菜への執着も、ある種「狂った」からであり、またそれは正常なことでもある。それがラストの「大丈夫」に至ったのかもしれない。

 

ラストの解釈、再会後の二人について

 再会後の二人の関係は上手くいかないこともあり得るとは思った。上手くいくだろうけど、別れることも普通にあるだろうなと。大人になる過程、普通の若い男女として。

 「あーこれ雲のむこう…的なものも感じるな」とも。
雲のむこう、約束の場所』はサユリを救い、世界も救った。天気の子は陽菜だけを救った。前者はそれが可能な状況ではあったものの、ヒロキの優先順位はサユリだった。作中でもタクヤと対立した。あの作品ではタクヤが須賀氏と同じ「大人」だった。そしてサユリが目覚めた時、ヒロキはサユリに「大丈夫」と。結果、二人はくっつき、そして自然に別れた。
 無理に重ねるつもりはないが、新海監督の「大丈夫」って観る人に意味を委ねている。秒速でも重要ワードだったね。
「大丈夫」って別に安心や永遠の愛の約束でも何でもなくて、私なりのとらえは「どうなろうとそれでいい」というような感じ。それはあくまで進んで掴んだ結果であれば、の話だが。
 だから陽菜と帆高が新たな日常を始めた時の「大丈夫」。それは何の保証もないけど、それでいいんだと。くっつき続けようが別れようが笑

 

「賛否両論」とは何かについて

 新海監督もずるいことやってきたなーと思ったよ。『君の名は。』登場人物がっつり投入は自分にとっても最大の賛否だね。
 祖母宅の瀧って瀧の皮を纏った別人としか思えなくて(三葉も)。あんな自信満々だっけ? 再会後ならわかるんだけど…。

 

 キラキラした東京の君名との対比としてリアルな東京。汚い東京。正直最高だった笑。そこを沈めてしまうのは痛快だなとも。水上バスの行き交う水面は美しさすら感じた。
 そこで生きる人々に悲壮感はなかったし、この状況はもう狂ってなどいない。日常。だから雨が降り続けても、もう晴れを願う必要などなくても「大丈夫」。こうも思うかもしれない。

 

 パンフレットにあったが、作品は興行スタイルによって変わるというような監督コメント。今作は大規模エンターテインメントに特化して作られているんだなと強く頷けた。それが分かると本当に素直に楽しめる。
 そして自分自身はやっぱり単館系が好みなんだということも笑。

 

 

小説を読んで[2019年7月25日読了]

 上記に挙げた多くの事がかなり埋まった。結果物語への印象はもちろんのことだが、詰まりに詰まっていた帆高の心の移ろいの発着場を見つけることができた。どうやって帆高は想いを強めていったのかを小説でようやく納得できた。繰り返すが行動や選択の結果については初回観賞時から全く文句の欠片もない。


 小説を読み終えるとすぐに居ても立っても居られなくなり、映画館へ足を運んだ。初回に立ち止まってしまった帆高の移ろいは、やっぱりアニメ本編中で掴むことはなかったが、小説を準えながら観ているととても腑に落ちた。

 どうも自分は映像作品から何かを感じとる能力に欠けているのだろうか。これは引っかかったところは異なるが『秒速5センチメートル』で味わった感覚に近いかもしれない。認めたくはないが小説を経てようやく把握理解できたのはそういうことなのだろう。
 ただ、『君の名は。』や『言の葉の庭』、『雲のむこう、約束の場所』はアニメ本編で最大限に入り込んできたので(これらも詳細な説明があるとは言えない)、ちょうどココ!というツボに当たっていれば違ったかもしれない。
 その映像作品での「ココ」がどんなものか具体的に示すことはできないが、ここはもう感覚的なところなので文章にすることが難しい。自分にとって『天気の子』ではそうではなかった。それだけのことだ。だからといって自分にとっての作品の優劣が決まることはなく、アニメだけでは掴みきれなかった『秒速5センチメートル』は今では最も好きな新海作品だ笑。そして 映画から小説を経て『天気の子』へのとらえ方は変わった。第一印象の「普通に面白かった」が、今では「とても素晴らしい」作品。これからどんどん好きが深まっていくだろう。

 

 小説版の内容については新海監督のあとがきにあったように人物の表情や言葉、行動に強いものを持たせるための人生の描写、あれこれの積み重ねがとても丁寧に描かれている。
 帆高と陽菜の物語は須賀氏や夏美さんの人生、物語も映し出すことによって強い説得力を持っていたのだと、より強く認識することができた。そしてあくまでサイドストーリーなのに、そこにすら惹かれてしまった。夏美さんの最後の叫びのシーンは泣いてしまったよ。
 須賀氏の言葉と涙、夏美さんの明るさの裏に秘められた想いや悩み、それらが帆高と陽菜にも重なり通じ物語が動いていくさまに心が揺さぶられた。

 

 ラストシーンの陽菜。正直なところ映画ではどう捉えたらいいのか分からなかった。たぶん今でも分かっているとは言えない。でもそれでいい。自分なんかが分かってたまるか、という気持ちすらある。
 どれほどの想いを胸に過ごしてきたのだろうか。沈んでいく東京をどんな気持ちで見つめていたのか。後悔や反省、諦めや自分への言い聞かせ。どれも違うと思う。でも晴れやかであり続けていたとも思えない。
 ただ、祈っていた。祈りや願いの意味など考える意味があるだろうか?
 帆高の言葉の通り、なんと尊いのか。それだけしかなかった。

 

  小説『天気の子』は映画に全く劣らない素晴らしい物語だった。

 

 

捻り出てきた何か② [2019年7月28日]

「僕たちは、大丈夫だ」について

 ①では安心や永遠の約束というとらえ方ではないと書いた。「どうなろうとそれでいい」、信じて突き進んだ結果なのだから。 
 基本的には変わらないが、新海監督コメントにもあるように正解はRADWIMPS『大丈夫』歌詞にあり、そこに小説を重ねてもっと掴むことができた。
 大人達からの「お前のせいじゃない。元々狂ってたんだ、そういうものなんだ」という言葉は真実で、水に沈んだ東京に向かって祈る陽菜を目にして「違う」となるのもまた真実なんだよなあ。
 一身に世界の形を背負わされた陽菜が、あれほどのことに遭っても、それでもまた祈る。もう役割を終えているのに、自分たちで選んだことなのに、それでもまた祈り願う。晴れを願うものかもしれない。故郷を失った人々への祈りかもしれない。また帆高に逢いたいという願いかもしれない。それでも、その祈る彼女の姿はあまりにも尊い。その彼女のしたことを、自分のしたことを、元々狂っていたで済ませていいはずがない。

 だからその全てを抱えて生きていく。信じて選んだ結果から目を背けず生きていく。どんな未来でも陽菜の大丈夫になって生きていく。そういうことなのかな。

 

 そこに晴れがある。 

 

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天気の子 アメ

 

蛇足[2019年9月9日]※毒あり閲覧注意

 『天気の子』という作品への評価は変わらないが、公開後に次々と出てくる後出し情報の積み重ねにより、純粋に作品を楽しむことができなくなった。

 それは劇場舞台挨拶での質疑応答に拠るものが大きい。作品を生み出すにあたっての想いや取り組み方といったものではなく、多くは「その後の二人」や誰が何を思っていたかの詳細説明に終始していて残念だった。帆高と陽菜はどうなっただの、瀧と三葉がどうだっただの、そんな質問回答ばかり。
 劇中に描かれていないものは受け手に委ねるべきと常々思っている。公式が何を言おうと劇中にないものは無きに等しい。それでもやはり公式発言というものの存在は大きい。それなのに公開間もない段階で公式があれもこれも事細かに言うのはどうなの?
 殊に瀧と三葉の須賀神社での再会が「雨の中で、二人には晴れて見えていたんじゃない?」というような発言。これには本当にがっかりした。『君の名は。』はなんだったの? 『天気の子』の踏み台なのか? そんなことすら思ってしまうほどに黒いものが心に広がってしまった。

 あの二人が雨が降り続け水没した東京で再会しただなんて。あの景色が心象風景だっただなんて。はっきり言おう。冗談じゃない。彼らは『君の名は。』の世界を生きていたのであって後付けの『天気の子』の世界にはめ込むなんておかしいよ。他にもいくつかあるが、これ以上挙げるとおさまりがつかなくなるのでやめておく。
 大切にしていたものを踏みにじられたような感情に包まれた状態で『天気の子』を純粋に楽しむことは難しい。こんなことを思ってしまう自分もおかしいのかもしれない。
 もちろん、勝手な思いを勝手に裏切られたと感じて勝手にがっかりしただけのことだ。アフター妄想に熱心なファンや公式に文句をぶつけるのはお門違いだということも分かっている。だからせめてこのブログでは勝手に失望を表明させていただく。

  

以上。